ホンダ |  HONDA (日本)

プロフィール

設立年月日

1948年(昭和23年)9月24日 

社長名

伊東 孝紳 

関連リンク(外部サイトへのリンクです)

公式サイト(http://www.honda.co.jp/) 

グローバルサイト(http://world.honda.com/) 

概要

二輪車メーカーから発展してきた乗用車メーカーで、創業者は戦後のカリスマ経営者として知られる本田宗一郎。ホンダイズムと呼ばれる企業精神のもと、独創的なクルマ作りを進めている。軽自動車の「ライフ」から3.7リッターV6を搭載する高級セダンの「レジェンド」まで、ボディサイズや排気量の幅は広いものの、商用車をほとんどラインナップしない独自の展開をする。国内はもろろん、海外市場を見てもタクシー仕様車をほとんど販売していない。このあたりはブランドイメージにこだわった戦略といえる。またF1への参戦に代表されるスポーツイメージも特徴とするが、近年は「オデッセイ」のヒットに象徴されるように、国内ではミニバン系の車種を得意とするメーカーになった。2代目「インサイト」投入以降は、ハイブリッド車のラインナップ拡充にも積極的である。メーカー間の提携が進む現在においても、基本的には独自路線を突き進んでいる。自動車以外にも、二輪販売で国内トップを堅持するほか、人型ロボットやビジネスジェット機などの開発も行う。 

歴史

創業者は戦後のカリスマ経営者として知られる本田宗一郎。1946年の本田技研研究所を発端に、1948年に現在の本田技研工業株式会社を設立。1949年に実業家の藤沢武夫が参加し、技術の本田宗一郎と経営の藤沢武夫による二人三脚の経営が始まった。

2輪車や汎用機の開発・生産を中心としていたホンダが、本格的に4輪車に進出したのは1963年に発売されたピックアップトラック「T360」から。T360はホンダ初の4輪車で、日本初のDOHCエンジン(2バルブ)を搭載していた。その後、現在でも世界戦略の基幹モデルである「シビック」を1972年に、「アコード」を1976年を市場に送り込み、4輪車の分野でも存在感を増していく。その源になったのが、高い技術力やホンダイズムと呼ばれる挑戦心だった。

1964年に日本メーカーとして初めて「F1」に参戦。1971年に米国のマスキー法に対応する低公害技術「CVCC」を発表。1981年に世界初の地図型ナビゲーションシステム「ホンダ・エレクトロ・ジャイロケータ」を発表。1982年に日本メーカーとして初めて米国での現地生産(アコード)を開始。1986年に米国で高級車ブランド「アキュラ」を発足。1990年にスーパースポーツ「NSX」を投入。1999年に当時の世界最高燃費35km/Lをマークした「インサイト」を投入。21世紀に入ってからも、ハイブリッド車のほか、人型ロボット「ASIMO」やビジネスジェット機「Honda Jet」の開発を進めるなど、ホンダの挑戦は多岐にわたっている。

近年はミニバンやコンパクトカーの開発・販売を得意とする。2002年には国内の年間累計販売台数において、「フィット」がカローラを抜いて1位を獲得した(ホンダ車の1位獲得はこれが初)。また2009年の2代目「インサイト」投入以降は、ハイブリッド車のラインアップ拡充にも力を注いでいる。経営面では、かつてはローバー・グループと提携していた時期もあったが(1979年~1994年)、その後は基本的に独自路線を貫いている。カーナビの分野では2009年にパイオニアと資本提携を結んだ。 

技術

・Honda IMA
エンジンとトランスミッションの間に小型モーターを挟んだ、ホンダ独自の簡易型ハイブリッドシステム(パラレル式)。主動力源はあくまでもエンジンで、小型モーターはアシスト役に徹する。高負荷時はエンジンとモーターで、クルーズ時はエンジンのみで、減速時はモーターが充電。アイドリングストップも自動で行い、無駄な燃費を抑える。他のハイブリッドシステムに比べてシンプルかつコンパクトな構成のため、車両の軽量化や低コストにつながる。インサイト、シビックハイブリッド、CR-Z、フィットハイブリッドなどに搭載。

・燃料電池車(FCXクラリティ)
究極のクリーンエネルギーともいわれる燃料電池。燃料電池車は、水素と酸素の化学反応を利用して発電し、その電気でモーターを回して走行する。水素さえ補充すれば継続して発電することが可能で、発電による副産物は水だけ。排出ガスもCO2も無論ゼロである。ただし、水素を供給するインフラの整備、製造コストおよび販売価格など、普及に向けては大きな課題が残る。ホンダでは燃料電池車「FCXクラリティ(4人乗り・FF)」のリース販売を米国と日本で2008年から開始している。FCXクラリティは最高速160km/航続距離620kmという性能を持つが、実売するとなるとその価格は1億円以上とも言われている。 

販売網(ディーラー)

かつては取り扱い車種のキャラクター毎にプリモ店(赤)、クリオ店(青)、ベルノ店(緑)の3系列に分けていたが(括弧内は各店のイメージカラー)、2006年春から「ホンダカーズ」への1本化を進め、全車種併売へと移行した。日本全国のディーラー数は約2400店。また2008年秋から高級車ブランド「アキュラ」の国内進出も計画していたが、市場環境の急激な低迷を受け、2年の延期発表後、最終的には白紙撤回した。 

モータースポーツ

ホンダのモータースポーツといえば、やはりF1(フォーミュラ・ワン)が真っ先に挙げられる。F1活動は大きく、第一期(1964年~1968年)、第二期(1983年~1992年)、第三期(2000年~2008年)に分けられる。F1参戦に先駆けて、1962年に「鈴鹿サーキット(三重県鈴鹿市)」を建設。F1参戦元年の第一期では、1964年のドイツGPに初出場、翌年のメキシコGPで早くも初優勝を遂げている。

F1・第二期はまさにホンダ黄金期ともいえる時代だ。英ウィリアムズと組んでいた1986年に初めてコンストラクターズタイトルを獲得し、翌年もドライバーズタイトル(ネルソン・ピケ)とのダブルタイトルを獲得した。さらに英マクラーレンと組んだ1988年~1992年には、アラン・プロスト、アイルトン・セナという歴史的な名ドライバーとともにF1シーンを席巻。4年連続のダブルタイトル(1988年~1991年)、開幕11連勝&全16戦中15戦で優勝(1988年)という他を寄せつけない速さを見せた。この頃、フジテレビでF1中継が始まり、日本でもF1ブームが巻き起こった。またホンダのテストドライバーを務めていた中嶋悟も、1987年にロータス・ホンダから日本人として初めてF1にフル参戦している(~1991年)。同年には鈴鹿サーキットでF1日本グランプリが初開催された(~2006年)。

低迷と混迷の時代となったF1・第三期は、B・A・R Hondaとしてスタート。2000年~2003年までは思うような結果を得ることができず、2004年のサンマリノGPで、ようやく復帰後初のポールポジションを獲得した(ジェンソン・バトン)。また佐藤琢磨もアメリカGPで、鈴木亜久里以来の日本人14年ぶりとなる3位入賞を果たし、この年はコンストラクターズランキング2位まで躍進した。2006年にはB・A・Rの株式を100%取得し、38年ぶりにオールHondaとして参戦。ハンガリーGPで復帰後初の優勝を果たすが、結局はF1・第三期、そしてオールHondaとして最初で最後の優勝になってしまった。2008年シーズンを最後に完全撤退。鈴木亜久里が発足した純日本チーム「スーパーアグリF1」にもエンジン供給していた。

IRL(インディ・レーシング・リーグ)においては、2003年からエンジン供給を開始し、翌年のインディ500で初優勝(しかも1位~7位を独占)。マニュファクチャラーズタイトル&ドライバーズチャンピオン(トニー・カナーン)に加え、ルーキー・オブ・ザ・イヤー(松浦孝亮)も獲得した。1997年には日本初のオーバルコースを持つ「ツインリンクもてぎ(栃木県茂木町)」を建設。2006年以降のIRLは、ホンダが全チームにエンジンを供給するワンメイク体制になっている。

フォーミュラ・ニッポンにおいては、シリーズ発足の2005年から2009年まで「NSX」、2010年からは「HSV-010」で参戦中。2007年にARTA NSXが3勝を挙げ、チームタイトルとドライバーズタイトル(伊藤大輔/ラルフ・ファーマン)を獲得した。 

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